NICHINAN CHAPEL 日南チャペル


 日南チャペルは宮崎県日南市に所在するキリスト教(プロテスタント)の集会所です



神のルール(出エジプト記20章)

「なぜ人を殺してはいけないのか?」そういう質問をする子供たちがいる。そのことが一時期メディアで頻繁に取り上げられ、様々な議論を呼んでいました。

 大人たちはそのような質問をする子供たちがいることを知り、驚かされました。「人を殺してはならない」なんて当たり前ではないか、なぜ、そんな質問をするのかと。しかし、さらに驚かされたことは、そのような大人たちが「なぜ人を殺してはならないか」という問いに対して明確な回答を持っていなかったことです。

 私たちはクリスチャンはそのような問いに対してどのように答えるべきなのでしょう。どうして人を殺してはならないのでしょう。答えは簡単です。それが創造主なる神が立てられたルールだからです。そしてルールというものは本来疑問を投げかけるべきものではなく、守るべきものなのです。

 たとえば、サッカーの選手が、試合中に、審判に対してなぜ手でボールを持ってゴールをしては行けないのか?と問うとします。それに対して審判はなんと答えるでしょうか。「それがルールだから」と答えるでしょう。またそれ以上に、試合中にその競技ルールに対して「なぜ」という疑問を持つこと自体がナンセンスです。

 私たちも人生というフィールドで競技をしているようなものです。競技者がすべきことはルールに疑問を持つことではなく、ルールに従って一生懸命に自分の果たすべき分を果たすことです。
 ルールに納得いかないからと行って、そのルールを破ったらどうでしょう。競技そのものが成り立ちません。そして自分だけでなく、まわりの人々に不快な思いをさせてしまいます。ルールを破った場合には必ず罰則が用意されていることも忘れてはなりません。

 神が定められた十戒を基本とするルールがあります。私たち人間が互いに人生という競技を喜び楽しむために神が与えてくださったものです。神のルールをしっかりと把握し、それに従って人生というフィールドで自分に与えられた役割に忠実に生きるなら、私たちは本当の意味で人生を喜び楽しむことができるのではないでしょうか。
    14:40 | Trackback : 0 | Comment : 1 | Top

おばちゃん!!

今日は子供たちの通う小学校の参観日だったので出席。

すると、6年生の一人の男の子から

「高森くんのおばちゃん!!」と声をかけられました。

息子と同じクラスの男の子かな?と思っていたら、

「おばちゃんを見るのは、ボクが1年生の時以来!
 久しぶりだな〜と思って!!」


そう、この男の子は私が5年前に絵本の読み聞かせをしていた時(1年生)のクラスの男の子だったのです。

 「え〜!? よく覚えててくれたね〜」と話をしました。

今は息子と違うクラスらしいのですが、何だかうれしい再会となりました。 

田舎の小さな学校。お母さん方も見た顔ばかりで声をかけたり、かけられたり。

子供の授業を見に来た、というよりは井戸端会議でした(笑)
    11:24 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

家庭集会

先週の土曜日、夕方から信徒さん宅で家庭集会が開かれました。
賛美と集った兄姉の証、メッセージを通して励ましを受けました。
引き続き、ご家族の祝福のためにお祈りしています。
    00:37 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

絵本の読み聞かせ3

ヤクーバヤクーバとライオン〈1〉勇気


アフリカ奥地の村の少年ヤクーバは一人前の若者として認められるために独りでライオンを倒しに出かける。しかしそこで出会ったのは、瀕死のライオンだった…。

「勇気とは何か?」を問いかける、大人の方にも読んでもらいたい絵本です。
    10:53 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

悪魔に勝利するために

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に付けなさい(エペソ6:11)


創造主の存在を信じると公言するクリスチャンは、悪魔の存在も信じているはずです。

クリスチャンであるという人で、創造主の存在は信じるが、悪魔の存在は信じないという方がおられますが、それは聖書的ではありません。

創造主を信じ、聖書が神のことばであることを信じるなら、悪魔の存在をも信じなければならないのです。

信じないことは、単に聖書的ではないというだけでなく、クリスチャン生活にも大きな支障が出てくるはずです。

クリスチャン生活は霊的な戦いです。

サタンの存在を信じないといことは、その戦いの中で、敵がいることを認めないことです。

目隠ししてボクシングのリングに立っているようなものです。

悪魔の目的は神によって造られたものを破壊すること。

彼は人間の思い(心)に攻撃をしかけてきます。

悪魔の存在を信じない人は、無防備なまま、悪魔の攻撃にさらされていることになるので、クリスチャンであろうと霊的な状況としては非常に危険です。

大局的な観点からは、私たちはイエスによって、すでに勝利を得ているわけですが、局地的な戦いという点では、私たち自身が、しっかりと敵の存在とその策略を知り、神の知恵と力によって対抗していくことが大切です。

そのことをしっかりと心に銘記しつつ、勝利の生活を我がものとしていきましょう。

    17:27 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

東国原知事(そのまんま東)の爆弾発言

わが宮崎県の知事、東国原さんのニュースで、宮崎の二つしかない民放も朝から賑わっています。

東国原知事の「次期総裁選候補」発言の真意がどこにあるのか、私にはさっぱり分かりませんが、あらためて東国原知事のメディアの使い方の上手さに感心しました。

あの発言は一石二鳥どころではありませんね。

三鳥も四鳥も、もしかすると、群れごと打ち落とす、一石ではなかったかと思います。

東国原知事の活躍で潤ってきた宮崎ですが、最近、なんとなく中だるみな雰囲気が漂っていました(あくまでも私の中でってことですが)。

それが、今回の発言で一気にシャン!!とした感じですね。

さらに注目が集まった宮崎の、さらなる発展にも期待。

個人的には東国原さんには、総裁への布石を置いた上で、しばらくは宮崎でがんばって欲しいです。

それにしても、知名度、話術、メディア、知識などなど、利用できるもの全てを駆使して使命と責務をまっとうしようとする東国原知事の姿勢には色々と教えられます。

私たちクリスチャンも、もてる能力を十分に発揮し、神に人に仕えたいものです。

その中でも「祈り」はクリスチャンに与えられた素晴らしい賜物であり、また使命です。

とにかく、それだけでもいいので忠実に果たしていくクリスチャンを目指していきましょう。

すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人のために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい(1テモテ1:1)

    13:14 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

絵本の読み聞かせ2

こいぬのうんち
「ぼくは、なんの役にもたたないのかなあ」
ちっぽけで、なきむしの、こいぬのうんち。けれど、春がおとずれたそのとき…。目立たないもの、弱いものに対するやさしさがこめられた絵本。韓国の第1回キリスト教児童文学賞受賞
    14:56 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

希望=苦悩+イエス

先日、郵便局に行ったら、待合室のテレビで「爆笑問題のニッポンの教養」(NHK)が流れていていました。

その時紹介されていたのが、9歳で失明、18歳で聴覚を失ないつつも、その苦難を乗り越え、現在、東京大学先端科学技術センターで「障害学」を研究、教授しておられる福島智でした。

印象に残ったのは福島氏の明朗さ。

唯一のコミュニケーション手段である「指点字」を介し、爆笑問題の太田さんや田中さんと話されるのですが、実に快活に、よく笑われるのです。

健常者である私たちよりも、肯定的、楽天的、積極的であることに、深い感銘を覚えました。

恥ずかしながら、もし、福島氏のような状態になったらと考えると、果たして正気を保てるかどうか、全く自身がありません。

私たちが想像を絶する暗黒の中に身を置きつつ、あの明るさを保つ秘訣は何でしょう?

福島氏は自分の人生のひとつの転機となったことばとして、ヴィクトール・E・フランクルのある公式を挙げておられました。

それは

「絶望=(イコール)苦悩−(マイナス)意味」

という公式です。

福島氏はその公式の右辺から意味を移行し

「絶望+意味=苦悩

という式を導き出し、苦悩は絶望ではない!!

と仰っておられ、なるほどと思いました。

福島氏の話やフランクル氏の結論は結局次の公式になるでしょう。

それは

希望苦悩+(プラス)意味

です。

そして、それは聖書においてすでに昔より明示されている公式でもあります。

「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ5:3−4)

艱難の中に意味と目的を見出すことができるなら、それは希望につながります。

クリスチャンにとっての究極の意味はイエスそのもの。

苦悩の中にイエスを見出せるかどうか。

それが絶望と希望の分かれ目になるのです。

言い換えれば、苦悩は私たちが神を体験する素晴らしい機会とも言えます。

「そこ(苦悩の中)から、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして、切に求めるようになるからである。」(申命記4:29)

苦悩の中でこそ、私たちは本物の祈りを捧げることができる。

その祈りの中で、私たちは真の意味でイエス(神)と出会うことができる。

そのことを、期待しつつ、この与えられた悩み多き人生の中で、日々イエスに出会う者となりたいのです。


「爆笑問題のニッポンの教養」HP→http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20090609.html
    22:32 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

耳のあるものは聞きなさい (マタイ13:1〜23)

 イエス様はイスラエルの人々に神の国の真理について教えられる際、必ずと言ってよいほど、譬え話を用いられました。これには大事な理由がありました。第一に、預言者イザヤによるメシヤ(救世主)預言が成就されるためでした。イザヤはメシヤ(キリスト)を、譬えによって真理を説き明かす人物として預言していたのです。(マタイ13:35)

第二の理由。それは神の国の真理について正しい姿勢を持っている人々のみに、深い真理の内容が伝えられるためでした。普通「譬え」は真理を分かりやすく伝えるための手段として用いられますが、イエス様の譬えはそれと同時に、真理に対して正しい姿勢を持って臨まない人々には真理が隠されてしまうという効果もあったわけです。(マタイ13:13~15)。

 正しい姿勢を持って真理を聞こうとしない人々には、真理が隠されてしまう。このことはイエス様の「譬え」に関することだけではなく、聖書そのものに関しても同じことが言えます。聖書は様々な文学形式(物語、詩歌、書簡etc)で記されていますが、もし私たちが正しい姿勢を持って聖書に接しないと、私たちはみことばの字面(じづら)だけを読み、つまづいてしまったり、また自分の都合の良いようにみことばを解釈して、その真意をつかみ損なったりするのです。 

 どのような心の状態がみことばの種を蒔くに適さないか、ということもイエス様は譬えを持って話されました。一つは「道ばた」です。それはみことばに対する無関心な心、飢え渇きの欠如している心をあらわします。2つ目は「岩地」です。かたくなな心を象徴するものです。自分の思いや願いなどが優先され、神のみこころがないがしろにされている状態です。3つ目は、「いばらの中」です。これは俗世と決別できていない心です。この世を愛する思い、また人を恐れる思いが、信仰の成長を妨げているのです。

 みことばに接するための正しい心の状態とはこれらの全く正反対を考えれば良いわけです。つまりみことばに対する飢え渇きを持ち、みことばをとおして神様のみこころを求め、この世を愛する思い、人を恐れる思いから離れて行くことです。このような姿勢で私たちが日々みことばの種を心に蒔いていくなら、みことばの種はあなたの心の中で芽をだし花を咲かせ、多くの実を結ばせるのです。
    12:16 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

梅雨

梅雨時期ですが雨が全然降らず、もう夏のような気候です。

「雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。」伝道者の書11:3

神様の「時」に雨が降る。

待ち望んでいきたいと思います。



    21:21 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
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日南チャペルは日南市星倉二丁目にございます、イエス・キリスト宮崎福音教会(宮崎市)の集会所です。

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